感想・漫画編。

屍姫シカバネヒメ 5

著者:赤人義一

出版元:ガンガンコミックス


生者と屍者のホラーバトルマンガ第5巻。本作の主要敵対組織・大群おおぜいのけがれの教主たちと、その"王"がついに登場。シリーズの、いわば第2部が本格的に始動する、そんな展開を見せております。味方サイドでも梅原うめはら僧正のコンビが登場するけど、やっぱこの巻は敵側のインパクトの方が断然強いよなー。そんな感じで本編は充実してるケド、代わりにアオリ食らってオマケページが少ないのが個人的には残念(笑)

そんなワケで、今巻のメインイベントは王の復活、とゆーか"顕現"ですか。そーいやあの儀式のシーン、本誌連載で最初読んだときはあんまし意味分かってなかったんですよねー。あとでコミックスで再読してやっと、屍者の肉体を利用して王を産み落とす、"死"を孕ませることで"屍"を世に呼び起こすとゆー、考えれば考えるほど死ぬほど気持ち悪い意味を持った作劇だったんだなー、と。ビジュアル的な気味の悪さ、インパクトで誤魔化される(?)けど、その描写に込めた"もの"は間違いなく本作のテーマ性に相応しい、どこまでも重苦しい"闇"を含んでいるんじゃないかと思わされます。にしてもこの王さま、"ヒント"もチラホラ出されてるしネット検索かければカンタンに答えも判明するんですけど、ちゃんと歴史上に実在している人物がモデルなんですよねー。いちおう歴史の教科書にも載ってるくらいの御仁じゃなかったっけ? この手の、歴史の人物を創作作品でフィーチャーするのって、おおむね武将をモデルにすることが大半って印象あるから、"やんごとなき位"に連なる人物を引き合いに出した事には少々驚かされる部分もありました。まぁそのくらいの様々な意味で強力のバックボーンを有するモデルだからこそ、本作のような多種多様かつハイレベルな不死者アンデッドたちの頂点に立ちうる、屍の王たるカリスマ性を持つに足るのかもしれませんけど。そーいやこの王の名、何気にモデルの実名も上手く盛り込んだ名称だったりして、後日調べたときにソコも感心させられた部分でしたねー。

んで。今巻のもうひとつの主要ポイントは、莉花りか早季さきコンビの過去エピソードですか。ナルホド、リアルタイムで幼少期の頃から出会っていて、紆余曲折を経て年齢(とゆーか外見が?)の離れた契約僧コンビになったと。このふたりの関係判明にもまた、読んだ後で色々と納得させられる部分が多かったと言いますか。ま、物語の伏線が明らかにされる時ってなぁ、得てしてそんなモンですけどねー。読者に「あぁナルホド」と思わせてこそ伏線ってなもんだからなぁ。閑話休題。10年も経ったのちに屍姫として早季さきを復活させたのって、仏教的な視点から考えると間違った行いなんじゃないかと思ってしまうんですけどどーなんだろ。長い年月を過ぎた後で今更のように反魂させるのって、生と死の正常な輪廻だといった側面からいくと、坊さん・僧侶の勤めとして教義に反しているように、どーにも感じてしまうんですけどねぇ。特に莉花りかの心情描写としては、死別した友達と再会したいという思いこそが強い印象で描かれてる、ってのもありますし。まぁいちおう、幼子のまま世界のこともさして知らずに世を去った、それも死への恐怖と未練を多大に抱えたまま亡くなった者に対して、改めて現世に呼び戻すことで世を学ばせその憐れな魂を救おうとする、という観点を取れば仏道に即していると言えるんですけどねー。でもなぁ(微苦笑)

ラストにチョイと。光言宗の修法派と衆生派ってえ2派閥の確立、キリスト教で言うカトリックとプロテスタントがあるのと似たようなモンなんでしょーかねぇ、第一印象でそんなことを思ったり。まぁ名称で知ってるだけで、宗教の心得なんぞ皆無な人間が言うこっちゃないコトではありますが、仏教にもそーゆうのがあるというのは少々意外な感じを覚えました。



▽自薦名場面 ― 64〜65ページ

 「余は全てを許そう。逆臣も余の敵も、人であった頃の無念も寂寥せきりょう も、そして我が宿命さえも………全てを許そう。

  だが殺す。

  余は全てを許し全てを殺そう。全ての律と全ての境と、全ての人間を殺そう………許した後にな」

黄泉還りし大群おおぜいのけがれの王・祟神魔縁すがみまえんの語る、死を司る"魔"として敷かんとする覇道の様。かつて"人"がおのれになした罪過の全てを許容しながら、その上で全てを滅ぼすと言う、その王の底知れない暗闇の深さは、たしかに魔王(魔縁)の者として相応しい不気味さ・恐ろしさを感じさせる様子じゃないかと。つーか、65ページ1コマ目の作画は実に良い意味で嫌な雰囲気が出てるよなー。怖いだけじゃない印象を覚えさすってのか。



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2009/01/18